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田部シメ子
1923年(大正12年)、3月4日、父源右衛門が肺癌で死去。4月、旧制青森中学校に入学、実家を離れて下宿生活を送る。成績優秀で1年の2学期から卒業まで級長を務め、4年修了(四修)時の成績は148名中4番目であった。芥川龍之介、菊池寛、志賀直哉、室生犀星などを愛読、井伏鱒二の『幽閉(山椒魚)』には読んで座っていられないほど興奮した[5]。在学中の17歳頃『校友会誌』に、習作「最後の太閤」を書き、また友人と同人誌『蜃気楼』を12号まで発行。作家を志望するようになる。 1927年(昭和2年)旧制弘前高等学校文科甲類に優秀な成績で入学。当時の弘高は全寮制で1年次は自宅通学以外は寮に入らなければならなかったが、太宰は母の考えもあって、病弱と偽り下宿生活をしていた[6]。夏休みに金木に帰省中の7月24日、芥川龍之介の自殺を知り衝撃を受け、弘前の下宿に戻るとしばらく閉じこもっていたという[7][8]。
1928年(昭和3年)、同人誌『細胞文芸』を発行すると辻島衆二名義で当時流行のプロレタリア文学の影響を受けた『無限奈落』を発表するが連載は1回で終了。津島家の反対を受けたと推測されている[9][10]。この頃、芸者の小山初代(1912-1944)と知り合う。1929年(昭和4年)、弘高で起きた同盟休校事件をモデルに『学生群』を執筆、改造社の懸賞小説に応募するが落選[11]。12月10日未明にカルモチン自殺を図り、母たねの付き添いで大鰐温泉で1月7日まで静養[12]した。太宰は自殺未遂の理由を『苦悩の年鑑』の中で「私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。」と自分の身分と思想の違いとして書いているが[13]、1月16日から特高によって弘高の左翼学生が相次いで逮捕される事件が起きており、津島家から事前に情報を得た太宰が逮捕を逃れるために自殺未遂をしたのではという見方もある[14]。
1930年(昭和5年)、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学、上京。当時、東大英文科や国文科などには入試があったが、仏文科は不人気で無試験であった[15]。太宰はそれを当て込んで仏文科に出願したが、たまたま1930年には仏文科でもフランス語の入試があった[15]。目算が外れた太宰は他の志願者とともに試験場で手を挙げ、試験官の辰野隆に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた[15]。
授業についていけず、美学科、美術史科への転科を検討している[16]。小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。10月、小山初代が太宰の手引きで置屋を出て上京。津島家は芸者との結婚に強く反対、11月に長兄の文治が上京、説得するが、太宰は初代と結婚すると主張。文治は津島家との分家除籍を条件に結婚を認める。大学を卒業するまで毎月120円の仕送りも約束するが、財産分与を期待していた太宰は落胆する[17]。除籍になった10日後の11月28日、銀座のバー「ホリウッド」の女給で18歳の田部シメ子と鎌倉・腰越の海にてカルモチンで自殺を図る。だがシメ子だけ死亡し太宰は生き残る。この事件について太宰は『東京八景』『人間失格』などで入水自殺と書いているが、当時の新聞記事では催眠剤を飲み海岸で倒れているところを発見されたと報道されている[18]。自殺幇助罪に問われるが、文治らの働きかけで起訴猶予処分となる[19][注釈 1]。南津軽郡の碇ヶ関温泉郷の柴田旅館で、初代と仮祝言をあげる[20]が入籍しなかった[21]。年明け、太宰は文治と覚書を交わし、問題行動を起こさず、大学卒業を約束するかわりに毎月120円の仕送りを受けることになった。2月、初代が上京、新婚生活が始まる。
1932年(昭和7年)、作家になる決意で『思い出』『魚服記』を執筆。文治の助力で左翼活動から離脱(#左翼活動 参照)。
創作、乱れた私生活
黒マント姿の太宰治
1946年、銀座のBAR「ルパン」にて(林忠彦撮影)[22]
1933年(昭和8年)、『サンデー東奥』(2月19日発行)に『列車』を太宰治の筆名で発表。同人誌『海豹』に参加、創刊号に『魚服記』を掲載。檀一雄と知り合う。同人誌『青い花』を創刊、『ロマネスク』を発表するが、中原中也らと争い、1号で休刊となった[23]。
1935年(昭和10年)、『逆行』を『文藝』2月号に発表。大学5年目になっていた太宰は、卒業できず仕送りを打ち切られることを考え、都新聞社(現・東京新聞)の入社試験を受けるが不合格。3月18日、鎌倉で首吊り自殺をはかる[24]。4月、腹膜炎の手術を受ける。入院中に鎮痛剤パビナールの注射を受け、以後中毒となる[25]。授業料未納で9月30日付で大学を除籍[注釈 2]。
『逆行』が第1回芥川賞候補となるも落選(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)。選考委員である川端康成から「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評され、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌『文藝通信』10月号で反撃した。
この年、佐藤春夫を知り師事する。佐藤も選考委員であり、第1回の選考時には太宰を高く評価していた。第2回を太宰は期待し佐藤も太鼓判を押したが、結果は「受賞該当者なし」となった。1936年(昭和11年)、前年よりのパビナール中毒が進行、佐藤春夫の勧めで済生会芝病院に10日間入院[26]。6月21日、処女短編集『晩年』を砂子屋書房より刊行。仇敵であった川端康成に献本と選考懇願の手紙を送っているが、第3回では過去に候補作となった作家は選考対象から外すという規定が設けられ候補にすらならなかった。
詳細は「芥川龍之介賞#太宰治の落選について」および「佐藤春夫#人物」を参照
パビナール中毒がひどくなり、多いときには1日50本を注射。初代の着物を質に入れ、知人に借金をして歩く。初代が井伏鱒二に泣きつき、文治に頼まれた津島家出入りの商人の中畑慶吉と北芳四郎が、10月13日に東京武蔵野病院に強制入院させる[27]。11月12日退院するが、翌1937年(昭和12年)、津島家の親類の画学生小館善四郎が初代との不貞行為を告白。3月下旬、水上温泉で初代とカルモチン自殺未遂。6月初代と離別。
結婚、作家活動
1938年(昭和13年)、井伏鱒二の紹介で山梨県甲府市出身の地質学者・石原初太郎の四女の石原美知子と見合い。この時、太宰は媒酌人を渋る井伏に対して「結婚誓約書」という文書を提出。その中でこれまでの乱れた生活を反省、家庭を守る決意をして「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」と書いている[28]。翌年1月8日、井伏の自宅で結婚式を挙げる。同日、甲府市街の北に位置する甲府市御崎町(現・甲府市朝日五丁目)に移り住む。9月1日、東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居。精神的にも安定し『女生徒』『富嶽百景』『駆け込み訴へ』『走れメロス』などの優れた短編を発表した。『女生徒』は川端康成が「『女生徒』のような作品に出会えることは、時評家の偶然の幸運」と激賞、原稿の依頼が急増した[29]。
1941年(昭和16年)、文士徴用令に呼ばれるが、身体検査で肺湿潤とされ徴用免除される。太田静子に会い、日記を書くことを勧める。戦時下も『津軽』『お伽草紙』や長編小説『新ハムレット』『右大臣実朝』など旺盛な創作活動を継続。1945年(昭和20年)3月10日東京大空襲に遭い、美知子の実家の甲府に疎開。7月6日から7日にかけての甲府空襲で石原家は全焼。津軽の津島家へ疎開。終戦を迎えた。
『斜陽』、もつれた女性関係
太田静子
10月から1月まで河北新報に『パンドラの匣』を連載。これは『雲雀の声』として書き下ろしたものの印刷所が空襲に遭い、燃えてしまった原稿のゲラを手直ししたものである[30][31]。1946年(昭和21年)11月14日、東京に戻る。チェーホフの『桜の園』のような没落貴族の小説を構想、1947年(昭和22年)2月、神奈川県下曾我で太田静子と再会、日記を借りる[32]。3月27日、美容師の山崎富栄と知り合う。
没落華族を描いた長編小説『斜陽』を『新潮』に連載。12月15日、単行本として出版されるとベストセラーになり、斜陽族が流行語となるなど流行作家となる。『斜陽』の完成と前後して、登場人物のモデルとなった歌人太田静子との間に娘の太田治子が生まれ、太宰は認知した。
詳細は「太田治子#経歴」を参照
10月ごろ、新潮社の野原一夫は太宰が富栄の部屋で大量に喀血しているのを目撃しているが、富栄は慣れた様子で手当てしていたという[33]。1948年(昭和23年)、『人間失格』『桜桃』などを書きあげる。富栄は手際がよく、スタコラさっちゃんと呼ばれ、太宰の愛人兼秘書のような存在になっていた。美容師をやめ、20万円ほどあった貯金も太宰の遊興費に使い果たした[34]。部屋に青酸カリを隠していると脅し[35]、6月7日以降、太宰は富栄の部屋に軟禁状態になった。心配した筑摩書房社長の古田晁が井伏鱒二に相談、御坂峠の天下茶屋で静養させる計画を立てる。6月12日土曜日、太宰は古田が週末の下宿先にしていた大宮市の宇治病院を訪ねるが、古田は静養の準備のため信州に出張中だった[36]。
死
※注意 右側に太宰と富栄の遺体が写っている写真があります。ご覧になる方は右端の「表示」をクリックして下さい。 [表示]
山崎富栄
1948年(昭和23年)6月13日に玉川上水で、愛人山崎富栄と入水した。2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により「桜桃忌」と名付けられた。
この事件は当時からさまざまな憶測を生み、富栄による無理心中説、狂言心中失敗説などが唱えられていた。津島家に出入りしていた呉服商の中畑慶吉は三鷹警察署の刑事に入水の現場を案内され、下駄を思い切り突っ張った跡があったこと、手をついて滑り落ちるのを止めようとした跡も歴然と残っていたと述べ、「一週間もたち、雨も降っているというのに歴然とした痕跡が残っているのですから、よほど強く”イヤイヤ”をしたのではないでしょうか」、「太宰は『死にましょう』といわれて、簡単に『よかろう』と承諾したけれども、死の直前において突然、生への執着が胸を横切ったのではないでしょうか」と推測している[37]。
中畑は三鷹警察署の署長から意見を求められ「私には純然たる自殺とは思えない」と確信をもって答えた[37]。すると署長も「自殺、つまり心中ということを発表してしまった現在、いまさらとやかく言ってもはじまらないが、実は警察としても(自殺とするには)腑に落ちない点もあるのです」と発言した[37]。
『朝日新聞』と『朝日評論』に掲載したユーモア小説「グッド・バイ」が未完の遺作となった。奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教のジンクス(13 (忌み数))を暗示した太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もある。自身の体調不良や一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺のひとつの理由だったとする説もあった。
しかし、50回忌を目前に控えた1998年(平成10年)5月23日に、遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明。遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判った[38]。
「人間失格#背景」も参照
既成文壇に対する宣戦布告とも言うべき連載評論「如是我聞」の最終回は死後に掲載された。東京・杉並区梅里の東京博善堀ノ内斎場にて荼毘に付される。戒名は文綵院大猷治通居士。
略歴
太宰治記念館 「斜陽館」
1909年6月19日 – 青森県北津軽郡金木村大字金木字朝日山(現・五所川原市)に生まれる。
1916年4月 – 金木第一尋常小学校に入学。
1922年4月 – 金木第一尋常小学校を卒業し学力補充のため、四ヵ村組合立明治高等小学校に一年間通学。
1923年
3月4日 – 父・源右衛門が貴族院議員(多額納税)在任中に東京で死去。
4月 – 青森県立青森中学校(新制県立青森高校の前身)に入学。青森市内の遠縁の家より通学。
1925年 – この頃より作家を志望、級友との同人雑誌等に小説・戯曲・エッセイを発表。
1927年
4月 – 弘前高等学校(新制弘前大学の前身の一つ)文科甲類に入学。
7月 – 芥川龍之介の自殺に大きな衝撃を受ける。
9月 – 青森の芸妓・小山初代と知り合う。
1928年
5月 – 同人雑誌『細胞文芸』を創刊し、辻島衆二・名義で『無間奈落』を発表。
9月 – 四号で廃刊するまでに井伏鱒二・舟橋聖一等の寄稿を得る。
1929年12月 – カルモチン自殺を図る。
1930年
3月 – 弘前高等学校を卒業。
4月 – 東京帝国大学仏学科入学。
5月 – 井伏鱒二のもとに出入りするようになる。
11月 – カフェの女給・田部シメ子と鎌倉の小動岬で心中未遂を起こす。相手・シメ子のみ死亡したため、自殺幇助の容疑で検事から取調べを受けたが、兄・文治たちの奔走が実って起訴猶予となった。
1931年2月 – 小山初代と同棲。
1933年2月 – 『サンデー東奥』に短編「列車」を太宰治の筆名で発表。ペンネームを使った理由を「従来の津島では、本人が伝ふときには『チシマ』ときこえるが、太宰といふ発音は津軽弁でも『ダザイ』である。よく考へたものだと私は感心した」と井伏鱒二の回想「太宰君」にて記されている。
1934年12月 – 檀一雄、山岸外史、木山捷平、中原中也、津村信夫等と文芸誌『青い花』を創刊するも、創刊号のみで廃刊。
1935年
3月 – 都新聞社の入社試験に落ち、鎌倉で縊死を企てたが失敗。
8月10日 – 第1回芥川賞は石川達三の『蒼氓』に決まる。太宰の「逆行」は次席となった。選考委員の佐藤春夫の自宅をその後訪問し、以後師事する。
9月30日 – 東大を除籍。
1936年
6月25日 – 最初の単行本『晩年』(砂子屋書房)刊行。
10月13日 – パビナール中毒治療のため武蔵野病院に入院。
1937年
3月 – 小山初代が津島家の親類の画学生小館善四郎と密通していたことを知る。初代と心中未遂、離別。
6月21日 – 井伏鱒二の斡旋で杉並区天沼1丁目へ転居。
1938年
9月18日 – 石原美知子とお見合いをする。
11月6日 – 美知子と婚約。
1939年
1月8日 – 杉並区の井伏鱒二宅にて結婚式を挙げる。同日、山梨県甲府市御崎町の新居に移る。
9月1日 – 東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居。
1940年
5月-走れメロス出版。
1941年6月7日 – 長女・園子誕生。
1944年8月10日 – 長男・正樹誕生。
1945年
3月 – 妻子を甲府の石原家に疎開させる。
4月2日 – 三鷹も空襲を受ける。甲府の石原家に疎開。
7月 – 爆撃のため甲府の石原家も全焼。妻子を連れかろうじて津軽の生家へたどりつく。
津島家新座敷(五所川原市)
1946年
4月10日 – 戦後最初の衆議院議員総選挙が行われ、長兄文治が当選。
11月14日 – 妻子とともに三鷹の自宅に帰る。
1947年
2月21日 – 神奈川県下曾我に愛人の太田静子を訪ね、一週間滞在の後、田中英光が疎開していた伊豆の三津浜に行き、3月上旬までかかって『斜陽』の一、二章を書く(完成は6月末[39])。
3月30日 – 次女・里子(津島佑子)誕生。
4月12日 – 長兄文治が青森県知事に就任。
11月12日 – 太田静子との間に女児(太田治子)誕生。
1948年
3月7日 – 『人間失格』執筆のため熱海の「起雲閣」に向かう。同作品は5月10日、大宮市で完成。
6月13日 – 愛人の山崎富栄と玉川上水(東京都北多摩郡三鷹町、現・三鷹市)の急流にて入水心中、38歳で死去。
6月19日 – 遺体が玉川上水の下流で見つかる。
1998年12月31日 – 没年50年にのっとり、著作権法による著作権の保護期間が終了[40]。
エピソード
左翼活動
1929年(昭和4年)、弘前高校で校長の公金流用が発覚、学生たちは上田重彦(石上玄一郎)社会科学研究会リーダーのもと5日間の同盟休校(ストライキ)を行い、校長の辞職、生徒の処分なしという成果を勝ち取る[41]。太宰はストライキにほとんど参加しなかったが、当時流行のプロレタリア文学を真似て、事件を『学生群』という小説にまとめ、上田に朗読して聞かせている[42]。津島家は太宰の左翼活動を警戒した。翌年1月16日、特高は田中清玄の武装共産党の末端活動家として動いていた上田ら弘高社研の学生9名を逮捕。3月3日、逮捕された上田ら4人は放校処分、3人が論旨退学、2人が無期停学となっている[43]。
大学生になった太宰は活動家の工藤永蔵と知り合い[44]、共産党に毎月10円の資金カンパをする。初代との結婚で津島家を分家除籍にされたのは政治家でもある文治に非合法活動の累が及ぶのを防ぐためでもあった[45]。結婚してからはシンパを匿うよう命令され、引っ越しを繰り返した。やがて警察にマークされるようになり、2度も留置所に入れられた[46]。1932年(昭和7年)7月、文治は連絡のつかなかった太宰を探し当て、青森警察署に出頭させる。12月、青森検事局で誓約書に署名捺印して左翼活動から完全離脱した[47][48]。
その他
太宰の墓がある東京都三鷹市の禅林寺では、太宰と富栄の遺体が引き揚げられた6月19日には毎年多くの愛好家が訪れている。これは一般に「桜桃忌」と称されている。太宰の出身地・金木でも桜桃忌の行事を行っていたが「生誕地には生誕を祝う祭の方がふさわしい」という遺族の要望もあり、生誕90周年となる1999年(平成11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。
身長175センチと当時の男性としては大柄で大食漢だった[49]。新婚当時、酒の肴に湯豆腐を好み、豆腐屋から何丁も豆腐を買っていたので近所の噂になるほどだった。太宰曰く「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」とのことだったが、歯が悪いのと何丁食べてもたかが知れているのが理由だった[50]。京都「大市」のスッポン料理や、三鷹の屋台「若松屋」のウナギ料理が好きだった。味の素が好きで、鮭缶を丼に開け、味の素を大量にふりかけて食べた[51]。味噌汁も好きだった。生家が一時養鶏業をやっていたこともあり、鶏の解剖が隠れた趣味だった。戦時中、妻の美知子が三鷹の農家から生きた鶏1羽を買ってくると、自分でさばいて水炊きや鍋にして食べた[52][53]。短編「禁酒の心」にあるように酒もよく飲んだ。体に悪いと言われると「酒を飲まなければ、クスリをのむことになるが、いいか」と弁解した[54]。
虫歯だらけの「みそっ歯」だったが、美知子夫人の勧めで歯医者に通い、32歳でほとんど入れ歯にした[55]。
足のサイズが11文(=26.4cm)と大きく、甲高でもあったので足に合う靴や足袋がなく苦労していた。戦後の戦災者への配給で兵隊靴(軍用ブーツ)を購入、これを気に入り愛用した。林忠彦が撮影した銀座の「ルパン」の写真で履いているのがこの兵隊靴である[56]。
三鷹駅西側にある三鷹電車庫(現・三鷹車両センター)と中央本線をまたぐ跨線橋にはよく通ったという[57][58]。階段下に太宰が友人を案内したことがある旨を伝える説明板が設置されている[59]。2017年現在もこの跨線橋は存在する。